おぎおんさぁの歴史

祗園祭を鹿児島では親しみをこめて「おぎおんさぁ」とよんでいます。この「おぎおんさぁ」は悪疫退散、商売繁昌を祈願するお祭りです。

梅雨明けの暑い7月下旬に、鹿児島市の繁華街天文館を中心に約2.5kmにわたり、総勢約3,000人もの人々による、古式ゆかしい御神幸行列と元気いっぱいの子供御輿、熱気あふれる大人御輿がにぎやかに祭りを盛り上げます。この「おぎおんさぁ」の特徴は、祗園傘・大鉾の妙技と十二戴女です。

また、「おぎおんさぁ」は、鹿児島の3大祭りと言われた諏訪神社の諏訪祭、稲荷神社の流鏑馬、八坂神社の祗園祭の中で、唯一残っている貴重なお祭りです。

おぎおんさぁの由来・伝承

おぎおんさぁの歴史

祗園祭は京都祗園社の祭礼(祗園会・祗園御霊会)の流れをくんでおり、貞観11年(869年)全国に疫病が流行った時、卜部日良麻呂がこれを牛頭天王の祟りとし、当時の国の数66か国にちなみ、長さ6mの鉾66本を立て牛頭天王を祀り、神輿を神泉苑におくり悪霊退散の祈願をしたことが祭りのはじまりと言われています。天禄元年(970年)からは毎年行われるようになりました。

鹿児島の八坂神社は、京都の八坂神社を勧請した神社です。本山は山城国愛宕郡八坂郷祗園天王社で、古くから祗園感神院と言われていました。
明治元年(1868年)八坂神社と改号され、佛家の手を離れ祭祀の一切を神職で行うようになりました。

今年は明治維新150年で県内でも様々な行事が催されますが、今年のおぎおんさぁは祗園社から八坂神社に改号され150年という節目の年でもあります。
鹿児島に八坂神社を勧請した年代は不明ですが、『ふるさとのお社(鹿児島神社誌)』によると、享保13年(1728年)現在の清水町に遷宮されたと記述されています。

祗園祭(おぎおんさぁ)については『三国名勝図会』によると、慶長19年(1613年)に祭り費用のために新しい土地が寄付されたとあります。寛永9年(1632年)には神輿を作り、その年の5月22日和泉屋坊(現在の上町)へ授けられ、6月16日に六日坊(現在の下町)へ受け渡すことが書かれています。
有村某の古い日記に「正保元年(1644年)祗園山の始まり、高砂の翁姥を飾る。」など、おぎおんさぁについて記載されています。

また以前、おぎおんさぁの関係者は祭り当日はもちろん、前日までの一定期間「きゅうり」は食べない風習がありました。これは「きゅうり」の切り口が八坂神社の紋に似ていたため、恐れ多くも八坂神社の紋は食べられないという理由からだそうです。

おぎおんさぁの特徴-今と昔

昭和47年/八坂神社(平之町)

古くは八坂神社を祗園社と呼んでいましたが、明治時代に現在の神社名を称されるようになりました。
島津の城下町として開けていた上町一帯には鹿児島五社(諏訪神社、八坂神社、稲荷神社、春日神社、若宮神社)と言われる5つの神社があり、その2番目になっています。

八坂神社の御祭神はスサノオノミコト、妃クシナダヒメノミコト、八王子です。
また、昔から行列の先導役として、大榊に猿田彦面をつけて御神幸を行っていました。榊は神の依り代といわれています。

おぎおんさぁのご神幸行列

昭和38年までは次のような日程で2日間にわたり行われていました。
築町(現在の名山周辺)八坂神社分社で「降神の儀」を行い、早朝に発輿し、清水町八坂神社本社に着輿。夕方本社を発輿し、御旅所である照国神社へ着輿。ここで一夜を明かし夜明け前、御旅所を発輿し築町の分社へ還るという御神幸行列が行われていました。

しかし、昭和39年になると交通事情などさまざまな状況によって、照国神社での御旅所はなくなり、1日だけの御神幸行列となっておりましたが、平成29年は本祭前日の宵祭に八坂神社から宮出しを行い2日間の日程で行われました。

上町、下町の市坊が輪番で行う祭り

昭和47年/かごしま祇園祭ポスター

上町と下町の市坊(上町と下町は名山掘りを境としていた)が1年ごとに当番となり、新しく社を建てて6月15日に神輿を迎えいわいまつり、来年の6月15日に次の坊に還すということを毎年繰り返し行っていました。
この輪番制がいつから始まったかは不明ですが、明治初年からは市坊の輪番制を廃止し、築町に社殿を建てて分社としました。
その後、昭和39年錦江町に移転し、昭和47年分社は廃祠されました。

例年、八坂神社で壱番神輿に御霊遷しを行い、おぎおんさぁの御神幸行列が終わると壱番神輿は八坂神社へ帰り、御霊を還す儀式を行っています。

鹿児島祇園祭(おぎおんさぁ)の二つの特徴

1つは祗園傘・大鉾の妙技です。この祗園傘・大鉾は上町・下町がそれぞれ所有し、御神幸行列の時に先頭に立って先祓いをすることが大きな役割です。鹿児島ではこの傘と鉾で妙技を行っています。

妙技は「練り」といい、傘・鉾の長い竹竿(全長8mから10m位)を肩・腕・額・あご・手のひらなどに載せ、中腰の姿勢で行います。小さい頃から練習を重ね数年経ってやっと人前で披露できると言われるくらい大変な技です。この技は上町・下町の各頭や代表者と呼ばれる指導者を中心に守り受け継がれています。

祗園傘・大鉾には八坂神社でお祓いしてもらった御札と御守りを「神魂」という筒に入れて提げてあり、祭りが終わった後八坂神社へ返します。祗園傘・大鉾や諸道具類は上町・下町それぞれの頭や代表者が受け継ぎ大切に保管しています。神魂を提げた祗園傘と大鉾には神様が宿っていると言われています。

もう1つの特徴は十二戴女と呼ばれている女性で次のような伝承があります。十二戴女は、以前は桜島出身で巫女の家柄の娘或いは嫁など年配の女性が、苧桶に八坂神社でお祓いを受けた紙垂の付いたサカシバ(榊)を入れ、さらに大きな桶に入れて頭に載せ、お賽銭を貰ったときにこのサカシバ(榊)を渡すという1日だけの奉仕を行っていました。

十二戴女の由来は、祭神のクシナダヒメノミコトが勤勉で、1年中糸紡ぎを続け12人分の仕事をしたという徳を称え、勤労感謝の意を表したと伝えられています。

歴代後継者で引き継がれてきたリーダー格の黒い衣装を着る人と他に11人の赤い衣装を着る人がいます。黒い衣装は八坂神社分社の男の神様、赤い衣装は八坂神社本社の女の神様と言い伝えられています。
以前は、この奉仕に携わることができるのは月の障りが無くなった年配者と決まっていましたが、平成14年以降は公募で十二戴女を募っているため若い女性がほとんどです。

文・鹿児島県文化財保護審議会委員・鹿児島市文化財審議会委員 牧島 知子

〈参考文献〉
  • 鹿児島神道青年会編集 1995年「ふるさとのお社‐鹿児島神社誌」
  • 原口虎雄監修 昭和57年「三国名勝図会」青潮社
  • 牧島知子 2013年「おぎおんさぁ‐鹿児島市の祗園祭り‐」「鹿児島国際大学考古学ミュージアム調査報告書No.10」鹿児島国際大学文化学部博物館実習施設考古学ミュージアム

ギャラリー

昭和47年/八坂神社(清水町)
昭和47年/八坂神社(清水町)
昭和50年/吹奏楽パレード
昭和50年/吹奏楽パレード
昭和53年/行列
昭和53年/行列
昭和54年/神輿練り
昭和54年/神輿練り
平成元年/十二戴女
平成元年/十二戴女
平成15年/子供神輿
平成15年/子供神輿